【スレ3】東南アジアの日本人学校に通っていた人
747 名前:日本人学校1 04/11/11 00:34:28 ID:nMnRl5U0
父の仕事について行く形で1988~1993の間
幼稚園年長から小学校5年まで東南アジアの某国に滞在してました。
学校の規模ですが、アジアで通貨危機が起きる前、そして日本では華のバブル時代だったために
日本企業が安い労働力と土地を求めて乗り込み、それに伴い毎年子供の数が増加していました。
校舎が手狭になったので5年生のときに大規模な新校舎に移転するほどでした。
全校生徒は幼小中合わせて1000人ほどで、他の国の日本人学校に比べて
かなり規模の大きな日本人学校であったようです。
748 名前:日本人学校2 04/11/11 00:35:30 ID:nMnRl5U0
先生は英会話の先生を除いてすべて日本人で、
この先生たちは文部省(当時)の海外派遣のための面接試験をパスしてきた人たちでした。
皆若く、情熱にあふれて人たちばかりであったように思います。
ちなみに地元の地方自治体と文部省とWでお給料をもらっていたらしいです。
それと授業ですが英会話の授業がある意外日本と全く同じ教育を受ける事ができましたが、
社会だけは僕にとってまるで馴染みが無かったためにさっぱり分かりませんでした。
現地の言語と文化を学ぶ事ができなかったのは今思えばもったいなかった気もします。
749 名前:日本人学校3 04/11/11 00:37:01 ID:nMnRl5U0
学校の休みはと言うと現地の風習に合わせるため週休2日で
国民の休日も正月とこどもの日を除いてすべて向こうに合わせたものでした。
また、春休みはお父さんや先生の転勤が多くかなり忙しいため1ヵ月あり、
そのかわり夏休みと冬休みが少し短くなっていました。
給食はなく、毎日が母の作る弁当でした。給食を経験した事が無かった僕は
それはもう給食に対するあこがれは半端じゃありませんでした。
また、生水が飲めないため水筒にお茶を入れて持って行くのですが、
赤道直下の高温多湿な気候のため汗をかきやすく、
お茶が無くなって誰かにお茶をもらいに行くという風景もよくありました。
750 名前:日本人学校4 04/11/11 00:38:43 ID:nMnRl5U0
友達も日本人ばかりが住むアパートに住んでいたためそこの子たちとよく遊んでいました。
当時は当たり前のようにみんなでドロケイをしたりプールで泳いでいたりしていたのですが
今になって聞いてみると商社マンの子とか、現地法人の社長さんのお子さんだとか
大使(ambassador)の子や、果ては老舗料亭の海外支店の板前さんの子とかその他もろもろ、
今の生活から考えるとあり得ないメンバーで遊んでいたんだなあと思い、
誰にも大怪我をおわせなくて良かったなと思います。
また、子供たちの中での最大の関心事といえばズバリ『日本』でした。
郷愁とかそういうものからではなく、英語も現地語も話す事のできない僕たちにとって
文化と言えば日本から来るものであり、情報もモノも限られているため、
ものすごく貴重なものに感じられたのです。
そのため誰かのうちには漫画本があるとか新しいゲームがあるとなると
大挙してその子のうちに遊びに行くのが普通でしたし、
夏休みに日本に一時帰国したとなるとしばらくはその子はヒーローでした。
751 名前:日本人学校5 04/11/11 00:41:21 ID:nMnRl5U0
そして最後に転校の話。
どの子も父親の任期が2~4年のため転校と転入が頻繁にあり、
クラスのメンバーも日本に比べてかなり流動的でした。
そのため新しい子に対する抵抗もまるで無く、わりとすんなりととけ込める雰囲気でした。
しかし転校となるといくら慣れているとはいえ日本の様々なところからきている子達なので
二度と会えなくなることが確実なのでお別れパーティーはかなり盛大に行われました。
そしてかなり仲のいい子になると空港のお見送りまで行き、
最後にみんなで空港内で鬼ごっこをしてバイバイするのが通例でした。
お別れだけは何回やっても悲しいものです。
そんな僕は日本に帰ってきたときは最初はかなり浮きましたが、
その後はわりと普通に高校生、大学生をやってきました。
日本にいなかった間の日本の情報が欠落している以外けっこう普通に生活しています。
帰国子女とはいえ英語が喋れなければただの変な兄ちゃんです。
ただ向こうの暮らしは僕の大事な思い出です。
752 名前:おさかなくわえた名無しさん 04/11/11 00:45:19 ID:tj3zUg6F
現地の子供の話や交流話が一切ないけど、
日本人だけのコミュニティで足りる生活だったのですか?
まあ日本人生徒が1,000人もいれば足りちゃう罠。
754 名前:日本人学校 04/11/11 00:56:48 ID:nMnRl5U0
>>752
おっしゃる通りほぼ日本人のコミュニティーの中で生活していました。
親からしても治安上の問題で現地の人たちと交流を持つのは怖かったそうです。
金持ち日本人の子ですからいつ誘拐されてもおかしくないわけですし。
学校の行事で年に数回現地の学校と交流する事もあったのですが
それでもかなり地位の高い子ばかりが通う学校だったそうです。
向こうの政府もかなり気を使っていたようです。